次回ライブ

■次回ライブ■
2017年12月19日(火) 下北沢BIG MOUTH

2016年6月15日水曜日

「新しい国とTシャツとわたし」⑤(2005年台湾ツアードキュメンタリー再掲載)

扉の男は近くで座っていた小雷と身振りで会話を交わすと、曲が終わるのを待っておもむろに入ってきた。何の事はない、林雨霖だった。

僕らが22時を少し過ぎてしまった事を詫びて、急いで片付けを始めようとすると、彼は1976のメンバーがまだ集合していないから、もう少し演奏して良いと言った。
僕らは1度それを断ったものの、本当に彼等はまだ姿を現さないようだったし、林雨霖の真意にはやはり、1年振りとなる僕達の演奏を見ておきたいという気持ちがあったようだ。
何となく空気が1曲だけ演奏する事を強制していた。そしてそれは1曲だけでよかった。
ただそうすることが僕らの過ごしてきた1年を、彼に正確に伝えるものになる筈だったからだ。
僕達はもう1度「その男〜」を合わせた。もうそれはリハーサルでは無かった。
林雨霖は音楽が伝えるべきものが何かを知っている。
僕らはその時点で1番新しいこの曲を、正直に演奏するしか無かったのだ。
林雨霖はそれを立ったままで真剣に聴いていたが、曲が進むに連れて、テンポに合わせて足を動かし始めた。それで十分だった。



片づけを終えた僕らに、楽器をスタジオに置いたまま、何処かで時間を潰していてくれと、林雨霖は言った。
明日の打ち合わせも兼ねて、そこでメンバー同士の顔合わせをしようと。勿論承諾して、部屋の隅に楽器をまとめていると、少し浅黒い顔をした実直そうな青年が、開かれたままになっていた扉の所に立っていた。「Hello」と、低く芯の強さを感じさせる声で彼は僕達と正対した。
当然彼には我々が何者なのか分かっている。林雨霖が彼を僕達に紹介した。
1976のヴォーカリスト、阿凱(アーカイ)とのことだった。彼の存在感は独特で、部屋の空気を一変させてしまうような威光を放つ訳では無いのだが、瞬間的に親しみを覚えてしまう何かが彼にはあった。
林雨霖も彼も同じ1976年生まれで、僕らより年上な訳だが、林雨霖に対して感じる友人としての親しさよりも、兄としての近しさとでも言うべきだろうか、兎に角一瞬にして僕ら一人一人から信頼を勝ち取ってしまうような才能を、阿凱は持っていた。

個人的に印象に強いのは、僕が小雷から教えてもらったばかりの下手くそな中国語の挨拶で歩み寄ると、「Nice to meet you」と握手しながら英語で返してくれたこと。
僕の挨拶が何とか通じた事、そしてそれに対する返答の意、これを最も分かりやすいシンプルな形で表現する為に、日本語の出来ない彼にとっては、この言葉しかあり得無かったのではないかと思う。
瞬時にこの言葉を選び、誠意を持って応えてくれた彼の姿勢は、常に他人に対して開かれていて、飾らず、疑わない、勇敢な態度だった。
僕は彼に既に少し尊敬の念を抱いていた。会って1分足らずの間に。

僕達は彼等の練習が終わるのを待つ為に、何処かで珈琲でも飲んでいることにした。
小雷は相変わらずのエネルギーで、何か見に行きたいものはあるか、と訪ねてきたが、日中を熱心な観光客として過ごし、息付く間もなく練習に臨んだ僕達は、既にかなりの疲労を蓄積していたのだ。
それならば良い所を知っているという彼女の提案にまかせて、僕らは街へ繰り出すエレベーターを待った。その時、僕達の後ろを横切ろうとする者に気付いて小雷が驚きの声を挙げたのだ。

まず目に入ったのは、黒と白のボーダーシャツに正確に納まった、愛くるしい顔の男子だった。
彼は、中国語と日本語で僕らの間を取り持とうと捲し立てる小雷の顔と、成りゆきを見守る僕達の顔を交互に見遣りながら、大きな目をパチクリさせていた。
「ベースの子喬(ツーチャオ。ちなみにチャオを上げて読まないと、豚の足という意味に聞こえてしまうらしい)です」と小雷が僕らに紹介してくれた。
彼も彼女の説明を聞いて納得したらしく、僕らは互いに握手を交わした。
少し戸惑っているようにも見えたが、決して内気な訳では無さそうだった。
後に思えば、そんな一見大人しそうな彼との距離感が、僕らと1976との親密さを計る物差になっていたようで面白い。
最終的に2つのバンドの仲がどうなったかは、子喬が我々のBBSに書き込んでくれたメッセージを読めば、お分かり頂けると思う。

その横に並んだ眼鏡をかけた青年を、小雷は「ナナロクのギター」と簡単に紹介した。僕と上窪は同時に「ジョニー!」と声を挙げた。
林君の日本滞在時から彼の事はよく話に聞いていて、曰く「台湾のジョニー・グリーンウッド(radioheadのギタリスト)」との事であった。
1976は彼と阿凱が中心となって結成したバンドであること、彼のパフォーマンスが本家顔負けの激しいアクションであることなどを、折に触れて林雨霖が話してくれていたので、僕らは見ず知らずの彼の事を勝手に「台湾ジョニー」と名付けて呼んでいた。
その癖が実際に彼と対面した喜びで、思わず出てしまったのだった。

彼はそう呼ばれた事に「ジョニー・・・」と呟いて、困惑した表情を見せたかに見えたが、直ぐに僕らの言葉の意味する所を汲んだらしく、照れ笑いで応えてくれた。
器の大きさを感じさせる、人の良さそうな優しい笑顔だった。
そういえば彼の本名を僕らは未だに知らない。
皆は愛称として「大麻(ダ−マ)」と呼んでいるらしいが、彼が大麻を吸っているわけでは無いと言うのが林雨霖の弁だった。
いかにも真面目そうな彼の仕種を見ていると、それは本当なのだろうが、彼も自身の赤いテレキャスターの裏に大麻草のステッカーを貼っている。

近くで休息して、もう一度スタジオに戻ると、部屋の外から1976の演奏を少しだけ聞く事ができた。
ある曲のイントロだけを試しているようで、全貌は分からなかったが、ギターの音色の素晴らしさはスタジオから漏れ出す音を聞くだけでも良く分かり、英国ロックに対する愛情が部屋を満たしている様だった。
僕達はまだ彼等の音楽がどういうものか知らないし、彼等も僕らの事を知らない。
しかし全ては明日、嫌でも曝されてしまうのであり、彼等同様僕達も、その場所でそれ以上の詮索をするのは止めておこうと思っていた。

それに何故かは分からないが、既に彼等は僕達の事を信頼してくれているように思えたのだ。
もう一度対面した彼等は、やはり第一印象のままの、好感の持てる佇まいでそこに居た。寸前まで1976としての連帯を確かめていた筈なのに、もう各々が外部に対して開かれた存在だった。
楽器を片付けながらも、言葉の通じない僕達がそこに居る事を平然と迎え入れてくれている様だった。
その後1週間ばかり、彼等と過ごす時間を持った訳だが、如何なる時も、彼等は誰に対しても決して排他的になる事はなかった。
全ての事を自分達に関わりある大切な出来事として捉えていたようで、そんな彼等の大らかな気質がなければ、僕達は1度だって満足な演奏など出来なかっただろう。
彼等の目や、声や、仕草全てが僕達に限り無い安心感を十分すぎる程に伝えてくれた。本当にそう思う。

その後、用があるという阿凱と子喬と別れて、林雨霖と大麻、そして僕達一行は、今回のツアーポスターを作ってくれたデザイナーの経営する喫茶店に出かけたが、その店の穏やかな雰囲気にほだされて、僕達は打ち合わせをするでも無く、只ひたすらにささやかなるライブ前夜の宴を繰り広げていた。
最初こそ明日の会場の様子を林雨霖や大麻に聞いてみたりしたものの、その話題も直ぐに立ち消えて、あとはひたすら思い出話や、世間話に終始した。
皆、なるべくライブの話は避けているかのようでもあった。
ホテルに戻り、おそらく遅く起き出すであろう僕らには、今が最後の安心出来る時間であったのだ。
他愛も無い話に必要以上に笑い合い、誰一人時間を気にしようとする者はなかった。それでも、誰かが置いてあったファミリーコンピューターのゲームを始め、その画面を眺めるのにも疲れた頃には、僕らは揃って自然に帰り支度を始めた。

各々に丁度良く理性を失える程に疲労していた。あとは眠りに落ちるだけだった。明日の事など考えずに目を閉じる。
僕らをホテルまで送ってくれた林雨霖の車を、激しい雨が打ち付けた。
本当に、日本でも年に一度あるか無いかという位、激しく、激しく打った。
雨のカーテンの向こうに街灯がぼんやり浮かんでいた。
沈黙を埋めるのはもはや思考では無く、雨音だけだった。
明日も雨が降るという。
僕は地続きになりそうな今日と明日の間に明確な線を引かなくてはならない。

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