次回ライブ

■次回ライブ■
2017年12月19日(火) 下北沢BIG MOUTH

2016年6月23日木曜日

「新しい国とTシャツとわたし」⑦(2005年台湾ツアードキュメンタリー再掲載)

21時になって会場に戻ると、中は感じた事のないような熱気に包まれていた。
何人かは地下社會に降り立つことができず、階段の踊り場辺りで中の様子を伺っているような状態で、僕らも入り口付近に居場所を確保するのがやっとの混雑具合だった。
殆どは僕らの楽器が心細そうに持ち主を待っているステージに顔を向けていて、前方の客は後ろの聴衆の為に、床に詰めあって座っていた。
開演までのあと30分の間を、僕達はそこで過ごすことが出来そうにも無かった。
この状態を後ろから眺め続けていたら、きっと逃げ出したい気持ちになってしまうだろう。

勿論観客の多くは1976のファンであるのだろうが、その1976が認めたという一応の形式になっている、日本からやってくる聞いた事も無いバンドにも多大な期待を寄せてくれていたのは明らかだった。
階段脇に置かれた、グッズ販売用の小さなテーブルにCDやTシャツ等を並べると、そこを日本から僕らをサポートしに来てくれた友人達に任せて、僕達は一度外に出る事にした。
逃げだしたということなのかも知れない。
いずれにせよ空気を、あの特殊な地下の社会ではなくて、冷静さをもたらしてくれる地上の空気を、僕達は必要としていた。
会場の対岸にある歩道に立って、入り口を見ていると、まだ地下に降りていこうとする人々が目に入った。
心を決めなければならない。
僕達はこの国に遊びにきた訳ではない。
少なくともお金を払ってあの階段を降りていこうとする彼等の前では。
幾度か深呼吸をする。
この界隈に広がる、台湾独特の臭気が僕の肺を満たす。
気付くと雨空はまた、僕らを試す様に、その手を休めて見下ろしていた。

再び観客達の後方に集った僕達5人に林雨霖が、本日分のチケットの売り切れを告げた。
それは同時に、これ以上何かを待つ必要が無い事を意味していた。
林雨霖が僕の目を見て何度か頷く。
僕ら5人のメンバーはお互いの目を見合わせると、密集する観客の間を割ってステージへ向かった。
その5人の迷惑な行動が、何を目的としたものかはすぐに理解され、それは会場全体に広がった。
一瞬にしてそれまでにあった倦怠感の薄い膜が切り裂かれ、全ての人が振り返り、ステージへ向かう僕らを目で追った。
僕はその誰とも目を合わせないように心掛けて、ゆっくり前へと進んでいった。
先を進むメンバー達の存在が頼もしく見える。皆同じ様に不安を抱えていたに違いないけれど、そうであるが故に、かつてない程に固い絆で結ばれて居た。
この特別な境遇を同時に体験する5人が団結しないで、誰と力をあわせようか。

そんなメンバー達に導かれるようにして、僕は何とかステージと称される、この人口密度にして不自然なまでに空っぽな更地に辿り着いた。
楽器達はこの視線の中に残されて居たことを非難するように僕らを見ていたが、抱え上げて調弦してみると、この雰囲気に満更でもないようだった。
僕は聴衆の方を向いてチューニングしていたが、まだ顔を上げず、目線も合わせなかった。
形として向き合いながら、コミュニケーションを成立させないことは、こうして可能なのだ。
それは今まで日本で行ってきた多くのライブで、本番中にも関わらず体験してきた状態だった。
僕達のライブは沢山の人にその非対話性を指摘され続けてきた。
思えば日本だろうと、台湾だろうと聞いてくれる人は何処の国でも同じで、今感じている様な熱気を孕んでいたのかも知れない。
それに向き合おうとしないで閉じ籠っていたのは、ただ単に僕達が臆病なだけだったのだ。
僕は、また後ろを向いた。
まだ聴衆とのコミュニケーションは成立していない。
そして水を口に含みながら、各メンバーの顔を見た。
皆、見た事もないくらい活き活きした表情で目線を交わしてくれた。
普段大人しい彼等の顔が上気しているように見えた。
ここがどこであるかはもう問題ではなくなった。
後は僕が彼等と聴衆の会話の開始に、合図を出すだけなのだ。
深く呼吸して前を向く。僕の忠実なマイクに歩み寄り、ゆっくりと視線を上げる。
さあ、誰が相手でも同じ。会話の始まりは挨拶からだ。

「ターチャーハオ」。僕の口から出た中国語の「皆さんこんにちは」は、思ったよりも太い音で鳴った。
直後に、信じられないことに、大きな歓声が僕ら5人を包み込む。
その瞬間に全ての歯車が噛み合い、動き出した。
その動き出す音が聞こえて、僕達5人は全員笑顔になった。
自分達が一生かけて聞きたい音の存在を悟った。
全ては対話の上に置かれなくてはならない。
そして音楽は、対話を円満に、簡潔に、直感的にする為の道具で在りさえすれば良い。そう思った。
今となっては、言葉の通じない事こそが有り難かった。
僕らと、彼等が用いることが出来るのは表情と、音しかない。
それは人間がどれ程進化しようとも、嘘の力の及ばない領域なのだ。

後は簡単な事だった。
その日の地下社會には一つの嘘も存在し得ない。
だから僕達は有りのままの下手くそな演奏を見せるだけだったし、日本語の歌詞をそのままの思いで歌うだけだった。
「考える人」「新しい国」「人形使い」とギター3本の曲を終えると、そんな僕達の事を、彼等もとても気に入ってくれたようだった。
体育座りで窮屈ながらも、笑顔でリズムを刻んでくれる人がいた。友人同士耳打ちしながら何枚も写真を撮ってくれる人がいた。
「笛」を終えて、僕は再びギターに持ち替える合間に、彼等の事を写真に撮った。驚いた事に、後に見たその写真の中に、僕らとの対話を拒否している人は誰一人居なかった。
全ての目線が僕らに意志を持って向けられていて、音楽を聞く事を望んでいてくれたのだ。
そこからは、リハーサル不足の曲が続き、危ない場面も幾度となくあったが、ギター3本だけで演奏した「少年と思想家」が何となく締まらない感じで終わっても、盛大な拍手が僕達を後押ししてくれた。

残すはあと2曲だった。
「誓いの歌」は、確か約1年前に書いた曲だったと思う。
僕らはその頃、某レコード会社とのやり取りの中で、疲弊して、やるべき事を見失っていた。
その時指摘されていた事には、納得のいく事もあったし、反発すべき点もあったが、問題はそのどちらをも、僕達が上手く実践できなかったことであり、音楽は目的を見失い、彷徨い始めてしまったのだ。
結局そのレコード会社との関係はその後2ヶ月程で終わりを迎えるのだが、その暗中にあって何とか自分を見失わないようにという気持ちで作ったのが、この曲だった。
僕達は誰でも、何をしても構わない。
それによって多かれ少なかれ生じる軋轢に対してどう向き合うかという時に、僕は自らの歓びにその判断を委ねようと、その時誓ったのだ。
そして1年後の台湾で僕は歓びの中にいた。
鍵盤の位置は低くて相変わらず不格好だったが、僕らと共に苦しんできたこの曲が、かつてなく鮮明に広がっていくのはバンド全員が感じていた。
僕らは今迷わずに、やるべき事をやれている。


とうとう、最後の曲が「The United Forces」だった。
コーラスのパートに関しては皆最後まで不安がっていたが、僕にはリハーサルで掴んだ感覚が残っていた。
あれ程緊張を持って臨んだ舞台が、終わる頃には物足りなさを感じていることを不思議に思いながらも、辿々しい英語で、最後の曲であることを告げると、Eメジャーのコードを最初にフライパンにひく油の様に、薄く会場全体になじませた。
そして最初のワンフレーズを歌い出すと、なんと会場の後方から歓声が上がった。
この曲は林雨霖在籍時のquizmasterからの定番だった。
それだけに彼にとっても思い出深いものだったのだろうし、昔作ったこの曲の音源を彼があの「ノルウェイの森」等に置いてくれたお陰で、この曲だけは少し知っている人が居たということであろう。
おそらく林雨霖とその周辺を囲む人々が、最後になったこの曲を待ってくれていたのだと思う。
僕はその歓声を聞いて、思わず笑みが溢れそうになったが、少なくともイントロの間は笑顔で歌うべき内容では無かったので、より一層集中して演奏することでそれに応えようと努めた。
そしてバンド全体が躍動感を持ってそこに加わった。

後の事は、興奮の中にいて良く状況が整理できていない。
僕らは予定通り10曲を終えて、本当に安心したし、聞いてくれた皆に心から感謝の気持ちで一杯だった。本当に十分素晴らしい体験をさせてくれたのに、彼等はさらにアンコールまで要求してくれた。
まさしく生まれて初めての体験だった。僕らは熱に浮かされるように、「光の輪」を演奏した。
アンコールがかかった時点で、今日の聴衆への感謝を表せる曲はこれだろうと、5人共思ったようだったし、何より、姿は見えないが確かに林雨霖その人と分かる声で、この曲の名前がリクエストされたのだ。
だからこの曲は気が付いたら始まっていたし、気が付いたら終わっていたような感覚が残っている。
ただ曲を演奏し終えた時の充実感は、過去に起こった何とも比べようの無い程素晴らしいものだったことは間違い無い。
再び終演の挨拶をすると今度は只温かい拍手が会場を埋めてくれた。
最後は全てが計算されたお伽話の様に美しく幕を閉じた。
そして明るくなった(ように感じた)会場に僕達の安堵が溶け出すと、1976のメンバーが駆け寄ってきてくれて、大麻が、おそらく林雨霖か小雷に今聞いてきたのだろう日本語でこう言ったのだ。「スバラシイ〜」。
彼の優しい笑顔を見て、僕は本当に今日のライブの成功を実感した。
その言葉は昨晩から本当に待ちわびていた台詞だったし、このツアーが本当に素晴らしいものになると、告げてくれるものであった。
そしてこの時に彼が自分の鞄から外して僕にくれた1976のバッジは、東京でこの文章を書いている僕の目の前に飾られて、今もあの時の興奮に連れ戻してくれるのだ。

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