次回ライブ

■次回ライブ■
2017年12月19日(火) 下北沢BIG MOUTH

2016年6月3日金曜日

「新しい国とTシャツとわたし」②(2005年台湾ツアードキュメンタリー再掲載)

師大路の夜市で僕達は臭豆腐の洗礼を受けながら、薄汚れた店内に置かれた小さなテレビに映る、台湾の安っぽいドラマをぼんやりと眺めていた。
セットも衣装も日本ではコントに使われるような手抜き加減だったが、どうやら彼等は真剣に演じ、真剣に仕事をしているようだった。
その劇中で彼等の使っている言葉は台湾語であると、林君は手慣れた手付きで豆腐を口に運んでから言った。

台湾の歴史問題をここに述べるのは控えるが、この国では中国語が国語として教育され、それとは別に台湾語が存在する(さらには客家語と、もう一つポピュラーな言語があるということだが)。
そして若者は中国語と台湾語の両方を混ぜ、使い分けながら生活しているとのことだ。
彼は後述するSAY YES TO TAIWANフェスティバルの際には中国語は使わないべきだとも言った。
小さな島国に暮らす、ごく普通の若者の中にも歴史の認識と責任が複雑に絡み合っていて、それが彼等の肌に静かに纏われている、それが現在の同じ東アジアで起こっている驚きを感じた瞬間。
僕達はその後少しの間何も言わずに画面を見ていた。


店を出て角を一つ曲った通り沿いの階段を、おもむろに林雨霖が降りていったのは深夜も1時を30分ほどまわったころであろうか。
壁には我々quizmasterと1976の一緒に写ったポスターが貼られていて、階段が我々を地階に運ぶ役割を終えた頃に、一際大きなパティスミスの肖像が僕らを迎えた。

「地下社會」、そこは僕達が日本を出て初めて聴衆と向き合う筈の場所だった。中は深夜営業の酒場の形態と化していて、既に白人客を含めた10人程度が店内にうごめいていた。
林君の紹介で、バーテンをやっていた可愛らしい女性店員と軽い挨拶を交わす。
彼女は「LADY BUG」というバンドをやっていて、その2枚目のアルバムは辛口の林君をして、台湾で最高の1枚と言わしめる作品とのことだ。
アメリカ留学をしていたという彼女は、そこで一人のアメリカ人男性を虜にしたらしく、彼女を追って台湾まで来たそのアメリカ人が地下社會の内装ペイントを施したということらしい。
なるほど、気が付けば店内の壁と言う壁はサイケ調の鮮やかなペイントで覆われており、それが外界と遮断するドアさえも無いこの場所を、一つの「社會」たらしめているようだった。

僕らは彼女の勧めで入り口に程近いテーブルに落ち着き、少しの間この空間に自分達の演奏を浮かべてみることにする。
細長い形の店内は幾つかテーブルを置かれると殆どスペースが無くなってしまう程の規模で、目を凝らせば奥にドラムセットが漫然と片付けられているのは見えるものの、東京のライブハウスの半分にも満たないサイケデリックな状況に、自分達の音楽が流れていることを想像するのは容易では無かった。
ライブの時はテーブルなどは全て片付けられるとはいうものの、ステージとして客席と線を引かれるような段差などは一切なく、ただその奥に僕達5人は陣取って、言葉の通じない聴衆と相対するのだという。

僕は体の奥が少し振動しているのに気が付いた。
思ったよりも台北の気温が低いこともあったかも知れないが、それだけが理由でないことは自分で良く分かっていた。
東京のライブハウスでも、ステージに上がるまえのごく直前にやってくる武者震いのようなあれが、2日前の今にして僕の体の奥を捕えたのだ。
それは怯えからくるものでは無くおそらくは決意の表出であるので、普段は気持ちの高まりとして心地よくもあるのだが、これ程前からこの振動を感じたということは今までにないことだった。
この台湾でのライブの重みをそれだけ敏感に体が感じ取ったということ。
その事実に僕は少しの間平静を失ったのだった。
あの空間の奥に立ってこちらを見る僕は、聴衆に何と語りかけるだろう。
その言葉はどこの国の言語なのだろう。
それを彼等はどう感じ、どう反応するだろう。
純平のカウントが始まる時、僕達はどんな気持ちでいるのだろう。

「お久しぶり〜!」と、甲高い日本語がその思考を遮った。
声の主の小柄な女性は小雷(シャオレイ)だった。

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